2020年02月02日

東堂印章の歴史その4二代目荒見博昌編

1.二代目、東京、神田にお店を開く
どのような経緯かわかりませんが、二代目父、荒見博昌は1960年頃、神田に名刺を中心とした小さなお店を開きました。
当時はパソコンもなく、1文字ずつの活字を組んで、名刺を刷っていました。
お得意さまは社名住所電話番号は、そのまま組んだ活字を崩さず、役職名、氏名だけを入れ替えて刷っていました。
持っていない活字の名前のご注文を頂いたら、慌てて活字屋さんに買いに行き、小さなお店に泊まって刷っていたようです。そのようにして、創業の大塚商会さんをお得意さまとして獲得できました。
神田は横の繋がりが強く、商売がしにくかったと言っていました。誰か一人に値引きをすると、それをみんなが知っていて同じように値引きしなければならなかったそうです。
2.二代目しぶちか店に来る
初代と親戚のサブちゃんで営業していたしぶちか店ですが、サブちゃんの修業が終わり、東北の地元に戻ってはんこ屋をすることになりました。そこで二代目が神田のお店をたたみ、しぶちか店で働くことになりました。
3.はんこを彫るより注文をとれ
初代から二代目に言われたのは、はんこを彫ることを覚えるのではなく、とにかく注文をとれだったそうです。
当時は下請けのはんこ職人さんもたくさんいたので、そのように言われたようです。
本来、父はとても器用で、絵も書も日曜大工もとても上手でしたので、初代の下で修業をしていたらスゴイ職人になっていたと思います。
苦手な接客、外回りをして、上手くいかないことも多々あったようです。
4.父と母のお店。
祖父が亡くなり、父一人になり、何人か雇ってみても、続かず、結局、母がお店に出るようになり、接客上手な母と器用な父で、お店は上手く回るようになりました。
母の頑張りで、お店は支えられました。
5、父が出来なかったこと
初代が彫ったはんこを持ってきて、これと同じ雰囲気で、子供のはんこを彫って欲しいというリクエストに対して、正直な父はできないと断っていました。三代目は初代が彫ったはんこを持って来たお客様に対して、勉強になります。頑張りますと受けてしまいます。祖父風に、はんこを彫れるのは、自分だけだからと思っていたりします。
二代目の父が三代目を褒めた唯一の言葉は、お前は真似するのが上手だから大丈夫だでした。
6二代目の才能
三代目がお店に入り感じたことは、才能のある二代目は、その才能を商売に生かそうしないでした。
二代目がある時に、東堂印章を2か月くらい書き続けていて、何をしているのかと思っていたのですが、ショップカード用の版下書きでした。
なぜ、そんなに時間を掛けると思ってみていたのですか、その書いたものの凄さに、父がお店に来れなくなって、ホームページを作る段になって分かりました。
縦に書いた字にも関わらず、横に並べても1文字ずつのサイズがほぼ同じなので、違和感がないです。ホームページ作りをお願いした人に驚かれました。

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posted by 一日3本 at 11:24| 歴史はお金で買えない | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする