しかし昭和25年、常設屋台を退去させる動きになり、
渋谷では、のんべい横丁が作られて飲食店は移転して商売を始めました。
物販は店舗数が多く、代替え地が渋谷でなかなか見つからず、東京都の人から、地下空間を使うというアイデアを頂いたそうです。
露天商の物販の人達は、元満鉄社員の並木貞人さんを信じて、露天を畳んだようです。
しぶちかのできるまでの約7年間、初代の荒見儀雄は何をしていたかというと、恵比寿にあった下総堂というはんこ屋さんの仕事を中心にした下請けではんこを彫っていました。
当時は既成の認印も彫っていたようで、
1日100本くらい認印を普通に彫っていたそうです。
今の機械彫りよりも早いような(笑)
なぜそのように早く彫れたかというと、彫るための字入れはしないで、縦横の真ん中に線2本引いただけで認印程度は彫れたからだそうです。
祖父が小学生の時から沢山のはんこを彫っていたからこそ、できた技です。
今、三代目が彫っているのをもし見たら、遅いと叱られそうです(笑)
一方、並木貞人さんは、信じてくれている人達のことを思って頑張って地下空間の建設許可を頂きました。
ところが、日本で初めての地下商店街作りは資金面で大きな壁にあたっていました。
日本で初めての地下商店街なので、、誰もがその価値の判断が付かなかったことが、大きな要因の一つだったようです。
行き詰まった並木貞人さんは
東京都の信頼をおける人に相談すると、大企業グループのTと一緒に、渋谷の地下街を作ることを勧められました。
しぶちかの45年記念誌の中で、並木貞人さんは大企業グループTと組むことの危険性を懸念していたことが書いています。Tが利益追求してきた時に、露天商の集まりでは対抗のしようがないではないかと考えていたそうです。
地下街建設のためには、Tと組まざるを得ず、建設許可を、Tに譲渡しTが建設、Tから元露天商に150坪の無償譲渡する。他は一切求めないということで、東京都と共に合意し、建設が始まったそうです。
ところが、昭和32年夏.もう少して地下街完成、本契約という段階になってから、大企業グループTは合意内容を覆し、150坪の無償譲渡はしない、貸すだけとして、まったく譲らなかったそうです。
今まで話してきたTの担当者は転勤してしまったそうです。
並木貞人さんの懸念が現実となってしまいました。
昭和32年12月1日に今のフードショウの所に東光ストアがオープンしても、地下街はオープンしませんでした。
新聞記事になっています。
並木貞人さんは苦渋の選択をして、Tの要望を全面的に受け入れて、昭和32年12月11日に渋谷地下商店街がオープンしました。
日本で初めての地下商店街ということで、視察も多く、父がデパートより高い値段を付けた方が売れたと言っていました。
並木貞人さんは、力をつけていき、T側の主張に対してもノーと言えるようになっていきます。
つづく